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第7回 山県有朋(やまがたありとも) 2006.1.30
第6回 長浜佐一郎(ながはまさいちろう) 2004.12.3
第5回 高橋真八(たかはししんぱち) 2004.5.26
第4回 伴 宜(ばん よろし) 2003.12.1
第3回 永島庄兵衛(ながしましょうべえ) 2003.10.16
第2回 西田明則(にしだあきのり) 2003.1.31
第1回 海堡(かいほう) 2002.10.25



第7回 山県有朋(やまがたありとも)(1838〜1922)
 “明治の元勲”と呼ばれた山県有朋は、陸軍省創設期(明治4年(1871)〜)に日本各地の海岸防御の必要性を強く主張していました。なかでも、東京湾の海岸防御が最重要であるとし、東京湾海堡建設に大きな影響力を及ぼした人物です。
 山県は、天保9年4月22日(1838.6.14)に長州(山口県)萩に生まれました。山県は、元冶1年(1864)、英米仏蘭4国連合艦隊との交戦時に負傷したことを契機に、武器と兵制の改革の必要を痛感して、攘夷論から開国論に転じました。明治維新直後の明治2年から3年(1869〜70)にかけて、西郷従道とともにパリ、ロンドン、ドイツ、ロシア、ベルギー、オランダ、アメリカを視察しています。この視察は、山県をいっそう国粋主義者にしただけでなく、西洋文明の移植・導入が日本にとっての緊急課題であると認識するきっかけとなりました。
 山県有朋というと、軍服に勲章をたくさん付けた写真を思い出す方も多いと思います。写真からは年齢が分かりにくいのですが、どうしても年配のイメージが先行してしまいます。実際に、何歳だったかを確認してみますと、初代陸軍卿に就任したのが明治6年(1873)、35歳の時です。初代参謀本部長に就任したのが、明治11年(1878)で40歳、内閣総理大臣には明治22年(1889)、51歳で就任しています。内閣総理大臣は60歳のときも再度就任しています。ちなみに、初代内閣総理大臣は伊藤博文44歳の時でした。現代と平均寿命が違うとはいえ、あらためて明治時代の指導者たちの年齢の若さを感じます。
 年齢のことでさらに検証すると、西田明則と山県との年齢差は、西田が文政10年11月23日(1828.1.9)生まれなので、西田の方が10歳年上だったことになります。陸軍での立場では山県が上位であったため、山県の方が年上であるような錯覚になりますが、実際の年齢などを想像しますと、それぞれの人物のイメージが膨らんできます。
 大正11年(1922)2月1日、山県は85歳の生涯を閉じますが、当時としては長寿でした。山県有朋の墓は、東京都文京区の護国寺にあります。お墓の周りは塀で囲まれ、門には鍵がかかっているので、塀の柵越しに覗くように見ると、夫人の墓とともに並んで立派な墓がありました。護国寺には、大隈重信や大倉喜八郎らの有名人のお墓が多くみられます。(高橋悦子)
 参考文献) 国土交通省東京湾口航路事務所『東京湾第三海堡建設史』2005.3、pp.416〜420
〔次回は岩野泡鳴について紹介します。〕



第6回 長浜佐一郎(ながはまさいちろう)(1852〜1925)
 長浜佐一郎は、嘉永5年7月1日(1852.8.15)、熊本県下益城郡杉合村字杉島(現・富合(トミアイ)町杉島)で士族の長男として生まれました。長浜家は、代々、肥後熊本藩主に仕えていましたので、佐一郎も15歳で藩主・細川侯に奉仕しました。19歳のときに熊本鎮台に入隊、明治10年(1877)に勃発した西南戦争には、官軍として従軍しています。※1
 明治維新後、明治15年(1882)に上京し、当時、横浜にあった東海鎮守府に文官として勤務していましたが、鎮守府が横須賀に移されることになり、明治17年(1884)、横須賀鎮守府勤務となります。横須賀鎮守府で書記官として勤務していましたが、佐世保鎮守府への転勤命令を機に退官し、事業家の道を進むことになります。※1
 事業家としての佐一郎は、横須賀市で味噌・醤油・燃料の仕入れ方を始め、第二海堡建設のために集まっていた人夫や船頭の飯場に酒などを納めていました。そして、海堡建設工事関係者の羽振りが良いのを見て、土木業を始めたといわれています。遺族の話によると、第三海堡の建設にも従事していました。※2
 また、佐一郎は、大倉土木(現・大成建設)、永島家とも親しかったと伝えられています。明治28年(1895)、土木建築請負業「長浜佐一郎商店」を開業し、明治39年(1905)、土木建設業「長浜組」を創業します。※1
 大正4年(1915)9月発行の『現代の横須賀』では、横須賀での土木建築請負業者として最も成功を収めた者として、小泉岩吉、馬淵曜、三上文太郎とともに、長浜佐一郎の名が挙げられています。邸宅は、木造瓦葺総2階建、総延坪数約130坪、室数20室、畳数124枚敷と大きく、「白浜御殿」と称されました。佐一郎は、米国建築家フランク・ロイド・ライト(F.L.Wright、1867〜1959)設計による東京の帝国ホテルの建設にも参加しています。※3
 事業家以外の顔としては、横須賀市が施行された明治40年(1907)には、名誉職参事会員に任命されました。※1
 さらに、晩年には、関東大震災により大きな災害を被った横須賀市の再建のため、「横須賀市復興会」の運輸交通及び通信委員部の委員長として近代都市横須賀の建設に尽力し、大正14年(1925)9月、74才で亡くなっています。※1
 長浜組の書類は、すべて関東大震災で焼失しているため、第三海堡に関連する書類は残っていません。長浜組は、永島庄兵衛のように埋立工事業に発展することはなく、建築業(後に長浜工務店と改名)で引き継がれていましたが、平成10年(1998)ころ、長浜工務店は廃業しています。※2 (高橋悦子)
※1横須賀の文化遺産を考える会『横須賀市参事会の人々』,2001.1.15
※2長浜つぐお氏(長浜佐一郎の孫)へのヒヤリング
※3永田是治(編)『現代の横須賀』,1915.9;『横須賀郷土資料叢書 第8号』,横須賀郷土資料復刻刊行会,1981
〔次回は山県有朋について紹介します。〕



第5回 高橋真八(たかはししんぱち)(1876〜1938)
 高橋真八は、明治9年(1876)7月15日、香川県綾歌郡青海村大藪(現在の坂出市大屋冨町)で庄屋を務めた高橋愛三郎の長男として生まれました。松山中学在学中に徴兵となり、陸軍士官学校卒業後、中尉として日露戦争に従軍、203高地の攻略に参加して肩に銃創受け、内地送還となり、北海道登別で療養生活を送った後、明治39年(1906)築城本部に配属され、昭和7年(1932)陸軍中将・築城本部長になった人物です。※1  築城の権威者として知られています。※2  第二海堡および第三海堡建設を直接担当したのは、明治43年(1910)から大正3年(1914)までで、高橋の当時の階級は大尉でした。※1
 東京湾海堡建設を担当する2年前の明治41年(1908)、32歳の高橋は、1月12日から10日間、第二海堡の調査を行い、その後、東京帝国大学の中野初子ハツネ博士(電気工学)と井口在屋イノクチアリヤ博士(機械工学)を第二海堡に迎えています。同年3月23日に衆議院議員160名、30日には貴族院議員が第二海堡を参観、そのため、前日から横須賀に行き、宿泊して案内役を務めています。そして、同年5月、横浜からドイツへ渡航し、大砲工場(クルップ社)の製造工程や欧州各地を視察しています。※3
 明治43年(1910)に帰国し、帰国後の担当が東京湾海堡建設で、横須賀に住居を移転しています。※1
 後年、高橋は妻の愛子に「第三海堡の工事は、造ってもすぐに壊れてしまい、たいへんだった。船(鉄筋コンクリートケーソン)を沈めてようやく収まった。第三海堡工事が収まったので、砲工学校教官として横須賀から異動した。」と語っています。※4  高橋が砲工学校へ異動になったのは、大正3年(1914)8月です。第三海堡の鉄筋コンクリートケーソンの施工年が不明でしたが、これによって、大正3年(1914)8月以前に行われたことがわかりました。
 また、「セメントの耐久性を見るのは名人だった。」とも話していたそうです。※4  高橋は、海堡の基礎が安定したあと、ドイツへ自ら発注した主砲の備え付けと動力源の水圧機の据付けを行いました。その作業は、1寸1秒の狂いがその操作に影響するという極めて精密さを要するものでした。※5
 砲工学校の教官になった高橋は、海堡建設がいかに困難だったか、また、西田明則の身命を国家に捧げ精進した話を聞いて感銘したことを生徒に語っています。※5
 第一次大戦後の大正8年(1919)、戦勝国日本の代表の一人として、高橋はドイツに派遣されています。そして、明治41年(1908)に渡航した同国の敗戦後の惨状に俄然とした経験から、「軍隊は国を護り、国民の権利を護るためのもので、いたずらに戦争は起こすべきではない。戦争はいかん。」と軍人でありながら周囲の人々に語っていました。※1
 趣味は日本刀や骨董品を集めることでした。鑑定を頼まれるほどの目利きで、日本刀を100本以上所蔵していました。写真を撮影することも好きで、ドイツへ渡航した際に撮影した写真をはじめ、たくさんありましたが、日本刀もアルバムもすべて戦災で焼けてしてしまいました。※4  アルバムのなかには、海堡に関連する写真もあったと思われるだけに、残念です。
 高橋は義太夫、三味線を好み、人形浄瑠璃も妻と連れだって見に行きましたが、かわいそうな話を聞くとすぐ胸をつかれ涙をこぼす人情家でした。※1
 海堡建設のため苦労を共にした人たちとは絆が深く、昭和13年(1938)5月19日、63歳で亡くなるまで、毎年、東京湾海堡建設の同窓会をしていました。多磨霊園にある墓は、東京湾建設の同窓会メンバーの方が建てています。※4 (高橋悦子)
※1牛尾保子:『戦争はいかん平和を希った軍人高橋真八』1993.12.20
※2『日本人名大事典』平凡社、1937.12.20
※3「明治41年高橋真八日記」による。高橋の日記のほとんどは戦災で焼けてしまったが、明治41年(1908)の日記は戦災に遭わず、残っていた。
※4牛尾保子氏(高橋真八の次女)へのヒヤリングによる。
※5吉原矩:『日本陸軍工兵史』1958.4.1



第4回 伴 宜(ばん よろし)1871〜1935
 ふりがなを“ばん ぎ”としている書籍※1 がありますが、六女・永井百恵氏によると、“ばんよろし”が正しい呼び名です。
 伴宜は、西田明則の後を受けて、東京湾海堡の建設に従事した陸軍の土木技術者です。『明治工業史』※2 によると、明治32年(1899)4月から明治40年(1907)11月までの間、伴が海堡建設の担当技師だったと記されています。伴は、この『明治工業史』の中の第9編「軍事土木」の著者です。また、米国国立公文書館で発見された資料「日本帝国海堡建築之方法及景況説明書」(日本から米国への海堡建設に関する技術提供資料)の著者でもあります。日頃から書くことが好きだった伴は、日記を高校生の時から欠かさずつけていましたが、戦災ですべて焼けてしまいました。もし残されていれば、海堡建設解明の貴重な資料になったと思います。
 伴は、福井県の出身で、福井藩儒・伴閑山の三男として生まれました。開成高校、一高、東京帝国大学へと進学したエリートで、スポーツも万能でした。体格がよく、一高時代は野球部、東大ではボート部で活躍しました。明治31年(1898)7月に東京帝国大学土木科を卒業しましたが、同級生には神戸港で日本最初の鉄筋コンクリートケーソンを設計・施工した森垣亀一郎がいます。※3  卒業後は陸軍の技師になり、佐世保支部付に配属された後※4 、翌年の4月から第三海堡の建設を担当しました。そして、明治44年(1911)1月から12月までの約1年間、欧州へ軍事土木の視察に行っています。※1  森垣と同級であること、欧州に視察に行っていることから、第三海堡に鉄筋コンクリートケーソンの施工を導入したのは伴ではないかと考えられています。
 東京湾海堡建設を担当後、中国の青島や朝鮮の上下水道の敷設計画に携わり※5 、大正6年(1917)12月27日に陸軍を退官後、東京府の技師になります。東京府時代は道路関係の技術論文を発表しています。昭和10年(1935)12月14日に64才で亡くなる前日まで、日本鋼管など3社ほどの会社の顧問をして忙しく働いていました。一方で、暇をみつけては恵比寿のビリヤード場に通い、腕を磨いていたようです。
 伴一家は昭和2年(1927)ころまで、新宿区早稲田にある夏目漱石の家の隣に住んでいましたので、伴家のお墓は新宿区早稲田鶴巻町の清源寺にあります。没後の昭和16年(1941)、山形県南陽市赤湯に水源地を探した伴宜の功績を讃えた石碑が建立されました。(高橋悦子)
※1手塚晃編:『幕末明治 海外渡航者総覧』1992.3.21
※2(社)工学会:『明治工業史 土木編』1929.7.30
※3東大土木同窓会:『東大土木同窓会名簿2001-2002』2001.12.15
※4内閣官報局『職員録』1899.4.29 (1899.2.1現在の組織)
※5(社)日本水道協会:『日本水道史』1967.3.31
※上記のエピソードは六女・永井百恵氏(水戸市在住)の話を基にしています。



第3回 永島庄兵衛(ながしましょうべえ)1853〜1913
 横須賀市の永島庄兵衛は、東京湾海堡建設に携わった施工業者のひとりです。永島家は代々、庄兵衛を名乗りましたが、海堡建設に従事した永島庄兵衛は、幼名を豊太郎と称しました。※1
 永島家は代々、名主で、江戸時代の御台場建設の経験をかわれて、東京湾海堡も請け負いました。永島家が残した文書(『永島家文書』横須賀市所蔵)の中から、第二海堡と第三海堡の施工時の記録が数多くみつかり、建設従事者の実態や施工方法が明らかになりつつあります。
 永島家は、海堡で得た技術を活かし、明治44年(1911)から田戸海岸の埋立を始めます。田戸海岸は永島家の前の海岸で、今は安浦という地名となっています。しかし、工事は難航し、大正5年(1916)に工事とその利権を安田保善社に譲りわたすことになります。その後、安田保善社は埋立を大正11年(1922)に完成させています。横須賀市の「安浦」の地名は、「安田」の「安」をとってつけられたものです。※2
 島崎藤村の『夜明け前』に登場する山上家は、永島家がモデルになっています。永島家へ島崎藤村が訪れたのは昭和4年(1915)のことで、知人の結婚式が横須賀の魚勝(現在の大滝町西友ストア横須賀店)であったのを機会に取材に来たといわれています。 ※3
 さらに、司馬遼太郎の『三浦半島記』にも永島家のことが出てきます。『三浦半島記』では、古い屋敷が保存されているとありますが、実際は「門」しか残っていません。永島家の門は、赤く塗られた門だったので、永島庄兵衛は、「田戸の赤門さん」と呼ばれていました。横須賀市安浦町に現存する永島家の「赤門」は、横須賀市の文化財に指定されています。
 「赤門」は長屋門と呼ばれる作りで、使用人たちの住まいを兼ねたものです。中央の門扉はケヤキ材で、江戸時代のものですが、ほかの部分は何度か改築されてます。※3 (高橋悦子)
※1長浜つぐお:『近代横須賀創設の先駆け達シリーズNo.1横須賀市参事会の人々明治40年4月27日〜明治44年5月1日』、2001.1.15
※2横須賀市教育委員会指導課:『歩いて見る横須賀シリーズ2東京湾海堡物語 海に浮かぶ要塞』、1993.12
※3横須賀市民文化財団:『横須賀こども風土記上巻』、1888.9.1



第2回 西田明則(にしだあきのり)
 明則を“あきのり”と読むのか、“めいそく”と読むのか、真実はわかりません。それは、戸籍にフリガナをつけないためです。本人の手紙が残されていますが、当然のことながら、署名は漢字で書かれているだけです。明則と話したことがある人は現在では誰も生きていません。西田好孝氏・小坂丈予氏をはじめ、明則の子孫(曾孫)の方々が話し合って、“あきのり”と読むことに統一することになりました。そのため、ここでも“あきのり”と表題をつけました。 しかしながら、“めいそく”と呼ばれていたことも事実であると思います。その根拠は、明則の孫にあたる小坂狷二(オサカケンジ)がアルバムに「Meisoku Nisita 祖父西田明則」と書いているからです。ただし、それが正式な呼び名であるかどうか、今となっては判断がつきません。小坂狷二は、明則の長女いゑと共に、明則と一緒に暮らしています。小坂狷二著:「小坂千尋小伝」1940.10.28には、狷二の父・小坂千尋(山県参謀本部長の副官)と祖父・明則のことが詳しく書かれています。その中に“明治22年(1889)10月、小坂千尋が山県有朋に随行して欧米を巡行しての帰途、東京湾口を通過中、海面に僅かに露頭した海堡の基礎を望み見て、山県監軍は「やア、西田の疳癪玉(ママ)がとうとう海の上へ頭を出しよったのう。」と言って大笑されたそうである。”と記述があります。明則が癇癪持ちだったかはわかりませんが、気性の激しい方だったのではないかと想像します。 一方で、「毎晩のように工事関係者を自宅へ呼び、酒や料理をふるまった。」(いゑから小坂丈予氏が聞いた話)といいますから、部下に慕われた人だったと思います。 さらに、明則は岩国で柔道師範をしていた武道家だったようです。西田家には明則が取得した武術の免許皆伝状が残されています。 (高橋悦子)



第1回 海堡(かいほう)
 海堡は、慣用読みで「かいほ」ですが、正しくは「かいほう」と読みます。“堡(ほう)”は砦を意味します。広辞苑には「海上に築城した砲台」と記載されていますが、実際に海堡を見ると、「人工の島に造られた要塞」と表現した方が正しく伝わると思います。海堡は英語でfort(要塞)となります。ただし、fortは海堡以外の陸上の要塞も含んだ言葉ですので、正確に海堡を表現しようとすると、“fort on the sea”“fort on an artificial island”ではないかと思います。
 「海堡」という言葉を使い始めたのは明治に入ってからです。嘉永6年6月3日(1853.7.8)のペリー来航直後の7月25日に、韮山(にらやま)の代官・江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)は富津岬の先に海堡を建造する必要性を説く意見書※1 を提出していますが、その意見書では「富津埋立御台場」あるいは「海中ニ新築御台場」という言葉を用いています。「御台場」は品川台場が整備されて以来、言葉の知名度が高いので、海堡を「海中台場」と説明した方が分かりやすいかもしれません。
 日本の海堡は、明治時代から大正時代にかけて建造された東京湾海堡(第一海堡、第二海堡、第三海堡)しかありません。第一海堡と第二海堡、第二海堡と第三海堡、第三海堡と横須賀の走水砲台は、それぞれ約2.5kmの等間隔の距離を置いて建造されました。約2.5kmずつ離れているのは、海堡建造当初の大砲の有効射程距離(約3〜4km)から求められました。(高橋悦子)
※1 「大日本維新史料稿本137」東京大学史料編纂所所蔵


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