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【東京湾海堡ファンクラブ設立】


目的

 東京湾海堡を核にして人の輪をつくり、海堡の歴史の検証、遺跡の整備と愛護、有効な活用の促進に努めるとともに、人々の親睦と交流を拡大し、東京湾口のランドマークとしての理解を深め、東京湾の歴史と未来をつなぐことを目指す。


事務局

〒293-0021 富津市富津1824(小坂宅)
 電話0439-87-2023(小坂宅) FAX 0439-87-0244


設立日

 2002年9月1日


活動

  @研究会の開催。
  A会報の発行(年4回)。
  B東京湾海堡に関する資料・情報の収集。
  Cその他、東京湾海堡への理解と愛護を深める活動。


会費

 年間 個人会員2,000円、法人会員1口10,000円


海堡と歴史

 日本は打ち寄せる波涛と共に、海上から明治の文明開化を迎えた。こうして直面した国際化にともない、海外からの侵攻が憂慮され、国土を守るため、東京湾口に人工の島を築き、砲台を備え、これを海堡と呼んだ。
 東京湾海堡は、過去においては、大艦巨砲時代の首都防衛の要塞になったが、現代を迎えてからは東京湾口のランドマークになった。未来における東京湾海堡は遺跡であるとともに、国土防衛と海民文化の情報集積や発信の砦となることが期待されている。
 この東京湾海堡は、富津岬の先端に近い第一海堡と、その西方の第二海堡、さらに、その南方の第三海堡の三つがある。明治元年(1868)に江戸が東京と改称され、江戸前は東京湾と呼ばれるようになり、東京湾は首都の門戸となり、防衛上からも重視された。明治11年(1878)7月に陸軍卿の山県有朋が中心になり、陸軍参謀局内に国土守備の拠点づくりを課題とする海岸防御取調委員が設けられた。その結果として各地に砲台を建設することになった。陸軍教師長ミュニエーや西田明則陸軍工兵少佐が尽力し、東京湾の場合は陸上砲台のほか、火砲の射程能力が考慮され、富津岬と三浦半島の間の海上に、さらに3ヶ所の砲台が必要と判断され、3個の海堡が建設されることとなった。
 当時は明治前期の大艦巨砲時代だったので、第一海堡は侵攻戦艦を対象に明治14年(1881)8月に起工し、明治23年(1890)12月に完工した。地籍は富津市黒塚である。続いて第二海堡は明治22年(1889)8月に起工され、大正3年(1913)6月に完工し、富津市洲端(すばた)に属した。さらに、横須賀市走水の沖にある第三海堡は、明治25年(1892)8月に起工し、大正10年(1921)6月に完工し、横須賀市に属した。第三海堡は竣工わずか2年後の大正12年(1923)9月の関東大震災で水没状態になり、現在、国土交通省により撤去工事中である。第二海堡も関東大震災で建物が壊滅的な被害を受けたので、火砲が徐々に他の砲台に移設され、昭和7年(1932)にすべての大砲が第二海堡から除去された。3海堡いずれも潮流の激しい海中での大工事で、基礎に三浦半島産の石を沈めて輪状の堤防を造り、伊豆石で外部を張り固めながら、そこに富津や横須賀からの土砂を船で搬入して構築した。
 東京湾海堡は、航空機時代を迎えてからは、明治政府が残した歴史的構造物になった。巨大な経費と時間を要した砲台だったが、実戦の効用は極めて少なく、太平洋戦争の後半期に第一海堡と第二海堡に対空火砲の陣地が置かれた程度で、軍国日本の解体となる昭和20年(1945)8月15日を迎えた。
 私たちは、このような歴史を経た海堡の愛護・整備活用を目指す。

2002年8月23日


発起人

    高橋在久(東京湾学会理事長・江戸川短期大学名誉教授)
    西田好孝(東京湾海堡建設従事者子孫代表)
    仲野正美(横須賀市立北下浦小学校教頭)
    安室真弓(東京湾学会理事)
    小坂一夫(富津市文化財審議委員)
    松本庄次(富津公民館長)
    小沢洋 (富津公民館主査)
    島崎武雄




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